―旅のきっかけ―


 緋色の空に白い煙がもくもくと天へ高く背を伸ばした。もう夕暮。あたしみたいな子どもはとっととお家へ帰ってご飯を食べましょう。今日のご飯は何かしら。クリーム色をしたざらっとした口当たりがたまらないレンズ豆のスープかしら、それともスパイスをきかせて鼻にも刺激的なカバブかしら。デザートは持ち上げると蜜がとろり、ぷーんと香る甘すぎる香りのバグラヴァがいいな、それかカルダモンとアーモンドの香るパンケーキのラフー・ベル・ロアズもいいかな。夢想に暮れながら帰る学校からの帰り道はとても楽しい。家々から漂ってくる「家庭のかおり」は、「女にあるまじき無鉄砲」とか、「慎みがない」なんて言われるあたしにだって縁のないものじゃない。大好きな食べ物が食事に並んだら、今日一日はどんなにか、そう、素敵に締められることでしょう。

 とってもいい匂いが漂ってくるのはやっぱりあたしの家。日干し煉瓦を積み立てて、さらに外から崩れないようにと塗りたくった窓の小さな家。他の子どもの家もみなそんなもの。でも今日のご飯は特別にいい匂い。忘れっぽいあたしだけど、今日は何か特別な日かしらと記憶の糸を辿ってみる。ひとつの物事にしか集中できないからついつい「ただいま」の一言を忘れてしまう。

「こーら、ナジャ!お母さんにただいま、は?」

 こげ茶色のひげを伸ばしているのはお父さん。優しくて大好きなお父さん。赤いらくだの刺繍が織られた絨毯の上であぐらをかいでいる。お父さんは大学で学者さんをしている。何を研究しているのかはさっぱり。でもあたしたちの信仰や法に関してじゃあないのは確かみたい。だって、たまにお父さんとそのお仕事仲間たちは「外国かぶれ」だと言われるから。でも気にしないわ、これは私にとっても誇りだもの。先進的じゃない?今時神様の言葉通りに生活している人なんて、このブンダールの町にはいないわ!それに、そう言ってのける人たちは大概奥地から町に出て来た人で、血の気の多いお父さんの学者友達のイルファーンおじさんはそういう人のこと、「進歩のないやつだ」と言っていた。ただ、お父さんはその言葉を聞いて苦笑い。あたしはイルファーンおじさんの言ってること、一理ありだと思うけどな。そうこう思っているとお母さんが大きな子羊のケバブを持ってきた。

「わあ、なになに?!お祝いごと?」

 あたしはただいまの挨拶も忘れて机の上に置かれたゆうに10人分はあるお肉に視線釘付け。絨毯の上に座ってたお父さんも腰を持ち上げて子羊に魅入る。

「まあ、お祝いごとって言ったらお祝いごとね。」
「お母さん、なになに?あたしの知らないお祝いごと?弟が出来た!とか?」

 あたしが興奮して言うと両親はそろって笑う。

「それはまだ早いわね。」
「はは、ナジャ。君は明日からヒバのところに行って勉強するんだよ。」
「えっ!!」

 突然の話にあたしはとっても驚いたわ。
 あたしたちはあたしたちの伝統を守るために子どもを田舎の村や遊牧民族の知り合いの下に送って勉強させる慣わしがある。話し言葉は生まれてこの方耳にするから覚えられるけども、伝統的な言葉や正式な挨拶の仕方はそういう村での学習で習得する。
 町は新しい時代の人ばっかりで、伝統を担う人たちは伝統が薄れるのを恐れて田舎や遊牧の民になる。ぶっちゃけると町には学習しにいった人以外、伝統を知る人がいないのだ。昔はよく田舎や遊牧民の下に学習させに行ったけど、今じゃこんなことやる家庭の方が珍しいみたい。この学習は辺境への旅な訳だから、危険を伴う。命を落とす危険性が高いのと、今の時代に見合わないという理由で殆ど都市伝説の域。

「ほ、本当に?!ヒバ兄ちゃんに会えるのは嬉しいけど、あたしこっちで大学に入るよ?」
「でもナジャ、君は教師になりたいんだろう?」
「ええ、そうよ。」
「だったら、伝統的な言葉を覚え、外の世界を知る必要があるよ。じゃないとイルファーンの言うかたぶつになっちまうかもよ?それにお勉強しに行った方が教師にはなりやすい。格の違いだな。」

 学者先生であるお父さんが言うんだからそれは間違ってないんだろう。だって、このお父さんも学習に行って教師になり、お母さんと知り合って職場結婚。まあ、お母さんはあたしが出来て教師は辞めちゃったみたいだけど。あたしが教師になりたいのはこんな大好きな二人を見てきたからってのが大きい。あと、子どもも好きだしね。

「なら行く!!」
「オーケー、ナジャ、良い子だ。」

 あたしは鼻息を荒げて強く言った。そしたらお父さんはあたしにウインクをひとつ飛ばした。

 豪華な夕食に腹鼓を打ったせいか、その夜は緊張で寝られなかった。…ことはなかった。ぐっすり寝て夜中に起きだすことなんて一回もなかった。

 次の日の朝はお母さんの声で目覚めた。ベッドの窓辺から朝日がこうこうと差し込む。白い光にあたしはおはようを言って、薔薇の小花模様のパジャマお脱ぎ捨てた。さあ、ちょっとばかし長いけれども、出かけようとしましょう。日よけのベールも忘れないように持って。



 あの遠い日の光の向こうの、彼方のオアシスへ。